暮らしようこそ ✾ Forest Life's Memory

人里離れた森の暮らしの雑記帳

じめに〜土地に対する視点

土に触れて、命の基盤を知るまで

この頁の大まかな概要

人にとって最も重要な「土地」

  1. 新鮮な空気、水、食べ物...の源、様々な糧を宿す「土地」あって、人はようやく健全に生きられる
  2. 人の身体は「土地」の糧で創られる、身近な環境・食べモノで人間性や身体の性質が構成される
  3. 自給的な観点から接すると、「土地」は、自ら(家族)の身体を創りあげる場所になる。
  4. 医食同源を超えて、「私」と「土地」は切っても切れない一つの共同体、自分の生き写しになる
  5. 応用すれば、小さな農地でも、少なくとも自身の身体や人生観を、望むように作り変えることができる
  6. 先代から次世代へ、脈々と受け継がれていく「土地の歴史」も、生活の一部として感じられるようになる

1.人間はなぜ生きていけるのかを考える

自身の棲み家に「土地」、それは自分の身体の一部のようなもの。
見えない手足のようなもので、これなしでは生きる力を満足に発揮できない。 あって当たり前の感覚というもの。人⇒天使で例えるならば(?)翼、もしくはエーテル体かな?と考えます。

手足がないと、自分で立って歩くことが出来ない。モノを掴んだり運んだり作ったり、望むように配置を変えたり出来ない。 同じように充分な「土地」がないと、自分の食べたいもの生きる糧を自分で賄えなくなります。新鮮な周りの空気も。水も。まさか介護施設のように毎日毎日、他所から運んでもらうわけにも逝かないでしょう。他人の世話(おカネ)なしで生きられない境遇は、案外不自由な世界です。

だが、自ら翼を生やせばどうだ?

(これは本来あるはずの人間の能力を思い出すという意味で)


人は、大地があって初めて生命力を十全に発揮できるようになる!自分の足で立って、自分の手で生きる糧を養い、自分の思考で食べたいもの、欲しいもの、生き方を足元から創造することができる!この時点から、人は全うな人間として歩き出せる。ずっと人生は素晴らしくなると思います。安心感も桁違いかな。

人は、自分一人だけでは生きていけんのです。一瞬で死ぬ。人間の集団だけ孤立しても同様。
共に大地があり、緑があり、新鮮な空気に、樹々の育んだ水、色んな木の実や野草、ハーブ、穀物たち、そして動物たちの存在があって、人の存在は健全に成り立ってくれる。私のお粗末な解析眼では理解しがたいような恩恵だって、それぞれにある。
身近は「それら」は、自分にとってかけがえのない物。生きる上で必要不可欠な、もはや身体の延長線上に等しい、自らの一部とまで認識できると思います。

自分という存在は、目の前に与えられた大地のすべて、存在の全てに繋がってくる。そのような場所は、どなたにも与えられうる。
その自ら手がける園で、何代もの命が永続的に循環し、廻っていく。一つの星。一つの次元、一つの宇宙のような。神のような気もちを少しは感じうるかもしれません。
自らの世界に無駄なものは何一つとしてなく、すべてに必要性が在って生きている、ずっと突き詰めていけば、たぶん。色々なことが今まで以上に、細部まで見えてくるような気がします。

2.自分の場所において、自他の境界は取り払われる

生きてく土地の中での、自分と他者の区別について。
自分にとって関わりがなければ、それは存在しないも同義。次元が違うというやつです。
今の目の前にあるもの。与えられた区画のすべて。それらが現在の自分を構成するモノ。

そのすべての存在を感じとる。初見では馴染みが薄いけれど、その地のものを食べ、その地に排出すること(食べた種も含め)を繰り返すことで、徐々に徐々に私と大地は同化していく。その区画の性質(部屋みたいなもの)は私色に染まるし、同時に自身が土地柄(その場その時代の風潮みたいなもの)にも染まる。良いところも悪いところも自分自身の体感として共鳴を感じられると思う。


感じたなら、そこを自分の感性で、どうしたらもっと生きやすいかな〜...とか、どうしたら毎日が楽しくなるかな〜?とか。考えながら、小鳥さんとか草花や木さんと一緒に戯れることとなります。
面白いのは、始まりの場所において自分の感性だけが全てになること。他者(親や先生であっても)の感覚や意見を全く必要とせず、自分の内面と真剣に向き合うことで、少しずつ自分の本当にやりたかった生き方が視えてくるように成る。その生き方に添うような、樹の響きや水の循環が起こるわけです。


思考を始めとして、自分自身で生み出したものは、誰にも、何物にも縛られたりしない。 あらゆる法則、教義を度外視した、そこから全く新しい概念が産み出されることになります。


まず最初に荒れ地を与えられた...私の場合、土地にとって最も重要なものは樹木の植え合わせだと最初は考えてて...(数年やってみて、それだけではなかったのだけれど)

例えば、樹を植えるという行為も。その先に何を見据えてるかで、結果はかなり変わってくる。

土を肥沃にさせるという観点だと、落ち葉⇒堆肥、木の実⇒鳥、虫、動物たち、それらの延長線上にある様々な微生物、ミミズとか。 木を植えることで発した意図は、時間経過と共に大地に根付くだろうと思う。

農地に毎年のごとく肥料=他所から持ってくる...なんて概念は崩れ去る。

面倒な雑草刈りも一緒。雑草の生え方は地上の風の動きや地中の水脈の流れ等が関係し、必要あって生じる。
土地が適正に整うことで必要なくなるもの。自然の流れを理解すれば、一手。或いは最低限の手間で共存できる条件が整うと思う。

その土地の意思を汲み取って「主」が思考するとき、主人の働きを元に土地環境は見違えるほど変化する。


「庭師は、その場所における意志のようなもの」(シェイクスピアより)とはよく言ったものだと思います!
目の前にある園の景観! すべてが主の考え方、思考、人生の在り方を現してる。 何を思って植えたか? それでどのように変化していったか? 今後どのように変わっていくのか?

その人の植えた樹々一つ一つ、植物たち一つ一つに意味が込められる。独自の愛称も付けてあげると良いです。実際そのように育ち、手足を動かすように、それらは働く。 同様に元からある雑草たちにも、先代の植えた樹々にも、存在する目的があってそこに在る。

とは言え、どんな植物も樹も花も、どんな役割や効能を持つのかなんて、植えた本人に聞けるわけでもないし、学術的にほんの表面一部しか実証されないという謎の多いもの、まずは自分自身の感覚で感じとり、いいな〜とか綺麗だな〜とか、もっとこうあるといいな〜って、その人の捉えた感性で接してみるのが面白いのではないかなぁと思います。

自分なりに捉えた視点で、「それら(ALL of Them)」を活用する術を見い出せば、自分の身体を動かすのと同じ感覚で、大地に根付く全てが意識と連なり、類まれなる素晴らしい園となって応えてくれるでしょう。

3.人が生きていくのに理想的なバランス

少なくも自給的な観点があれば、人が生きていくのに理想的なバランスを、その土地は教えてくれます。
きゅうり好きな人がキュウリばっか植えてキュウリばっか食べて生きた。

年中きゅうりか?(' '*)

となる前に、自然の土では連作障害を起こしてくれるし、そもそも真冬にキュウリは育たないし...
人が生きていくのに理想的な植栽のバランスを、自然との関わりを通して学べるふうです。
春は野草が美味し、夏はトマトじゃ、秋は果物いっぱいで、冬は穀物の蓄えに寄せ鍋。


しかし近代までは、人は米ばっか(?)食うって生きてました。
まわり水田ばっか! おいおいおい、それで大丈夫なんか?!
⇒ 大丈夫でした(' '*)

正しくは、稲作中心の文化が日本人にとって当たり前でした。
ただし周り水田ばっかの景観で、年中稲作に追われて生きていくのが最善なのかは微妙。

みんな米作りしてみたらいいよ。
大変さ分かるから。本当に、大変だから。


それで戦後の農家離れは進み、高度経済成長で国は工業化機械化に進み、もっと楽で便利で快適な暮らしを求めたのだろうし、大型機械導入の田植えから品種改良の進む一方で、お手軽でおしゃれな欧米食の文化などが流行っていったんだと思う。果てはレトルト、冷凍、インスタント食品。そうやって国の「技術」が急成長した結果、今がある。まぁ安直な便利さに浸かった分だけ、様々な問題点が浮上してくるわけですが。。。何とも、現代人は軟弱になってしまった(私自身も)。。。

昭和後期から令和末期の社会問題において因果関係は多岐に及びますが、やはり水田(稲)をメインに据えた頃からが綻びだったんじゃないかと私は考えてます。人は望んで稲作ったわけでは無かったんじゃないかと。

歴史を掻い摘めば、年貢のためとか、出来高制とか、無理矢理感があるような。


そもそも国土を省みると、何となく。
一般的な水田って、平坦な場所で作るのが理想です。平地の文化です。
しかし日本は75%の地形が山地と言われてる。平野はともかく、山の木々を根こそぎ更地にして一面に米作りとかありえない。。
場所によって適する作物は豊富に変わるだろうし、個々の好みで様々な種の植わってた方が適切。

まぁ要するにバランスが可笑しい感じなんです。
私の管理してる執筆時点の山の田んぼ、獣害もひどければ水も不足している。作っても満足に育てられない環境で、なぜか水田跡として放置されてる状況。


私は、稲作から一度離れてみるべき、土地のメッセージかと思いました。
どこか問題がある場合、作物に現れる被害とか病気となって、自然の土地さんが警告を発してるような感じ。 このままじゃー、土地も人間も壊れてしまうよ〜〜〜〜って。そんな言葉。

自分の手の痛み、痛かったらすぐ手を引っ込める!痛くなくなる! のと同じように作物の痛みは生命に関わる、自分自身の痛みに等しい。感ずれば痛みの元から手を引っ込めようと方向転換できます。
この程度の痛み!さもありなん!だったら別に構わないのだけど...或いはお金の為に痛いの我慢し続けてると...底は深まる一方


これ。問題が深刻になるまで置き去りにした場合、底から足りない脳みそフル回転させて打破しなくてはなりません。 自分一人でドツボにハマるとかなりキツイが...その為の、異なる文化の交流だったり、インターネットの情報だったり。違う次元の考え方だったり。 皆それぞれが異なる視点や考え方をもつと=まるで予想外の思ってもない解決策が出やすい。

農の在り方において、各々の世界観、独自性を大切にしたいと思う理由です。。


きっと植物たちの根ットワークも、きっとそんなですよ。
色んな樹や植物たち、それぞれの生態系世界観を「確立」して活かせば、各々の土地が連携できて心強くなりそうです。見本の選択肢も広がるし。

4.人の在り様はどこで判断されるのか?

人の在り様はどこで判断されるのか?
⇒ 自ら開梱した土地。

人を見かけで判断できる時代がやってきました。
といっても見るのはその人ではなく「土地の景観」なんですが...

男は年収が全てよ!
と宣う女性の意見は正しいですかね。収穫の成果。
年収というか、大きな枠で「生きる糧」と言い変えますが...きっとパッと見で分かる未来の安心感ですね。
結婚したら、主の場所で暮らすことが大半でしょうから。相性とか測る以前に。
その人の生き様を見て、その人の手がけた園の在り方を見て、一緒になったら未来の人生どんなかな。

食べ物や植栽(食彩)の好み、目指してる方向性に共感できるか?もあるだろうし。

作物の成り方を見れば、その人がどのように植物たちと接しているかが分かる。
動物たちとの接し方を見れば、彼らの表情やしぐさ、気持ちを観ることで、主の人間性を理解できる。
その人が周囲に対してどのような思いで接しているかが、そのまま自身の扱われ方に繋がってくる。 子どもに対しても、そのまま自分自身の扱われ方と同じような概念になる。

見かけで分かる因果関係(' '*)
「あなたがたはその実によって彼らを見分けるのである」(マタイによる福音書第七章二十節)とは...まさに。

その人の手がけられたのが「園」であったりする他、「お店」や「会社」?されてる方の有り様を見るのも、同じかもしれません。

5.土地の歴史について

で、借りた、或いは購入して自身の管理することになった土地。 元々は、その地域のご先祖にあたる方が代々築いてきた場所に当たります。 身体は親から受け継がれるが、身体の延長は土地から受け継がれる。 ある意味で、私のお父さんお母さんに同義...と土地に思いを馳せます。

地域の方々とコミュニケーションすると、先代の感覚が分かってくるかもです。 地域柄、どのような想いがその土地に根付いていたのか。新参者でも何となく。 先代の場所を把握。それに対して、最初どういった土地とのお付き合いが望ましいのかな〜って。

集落の人たちにとって、地元の土地がどれほど大切なモノかは想像に難くないでしょう。
目の前にある土地は、先代からずっと受け継がれてきたもの。 先代の先代の先代の...脈々と、その記録が土の中に刻まれてる。


土地を知り、そのバランスを整えるためにも。
いきなり我が理想!ではなく、現状を知ることが始まりかな。
同時に、私の人となりも土地・地域に知ってもらう。一年ゆったり。

6.まとめ

農地に対する私の概念はこんな感じです。 いずれにしても、その場所でどんだけ素晴らしい世界を創りあげることができるか? が最終目標です。目に見える形で。創り上げた園で。

すべての内の、理解できた範囲で、類まれない世界を築き上げんと欲する。 何十年、何百年と続く...どれほどの芸術を大地に描き出せるだろう? 運命も、生き様も、概念も、大地と共に自らで創り上げていくもの。

望むようになるまで、何度でも挑戦し、学び続けるでしょう。
理想が叶ったら自分の植えた樹の下で眠る。やることないし、たぶん安らかな死として。
もう一度、生まれ変わるその時まで。


と、哲学じみたポエムは終わり。
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